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  媛媛講故事―25

                                 
  八仙人の伝節 Ⅴ 
                                   
                                韓湘子 (かんしょうし)             何媛媛



 八仙人の中で、笛を携えているのが韓湘子という仙人です。

 言い伝えでは、韓湘子の師匠は呂洞賓ともいわれています。実は、韓湘子は本来は人間ではなく、洞窟で修行を続けていた仙人達の前にいつもいた鶴でした。

 洞窟で仙人達が話しているのを聞いているうちに色々なことを悟るようになりましたが、鶴であるため仙人になることはできませんでした。ある時、既に仙人になっていた呂洞賓は悟性の高い白鶴が洞窟にいると伝え聞きました。そして、この白鶴のいるところにやって来ると羽を脱ぎ去る術を白鶴に教え、その方法によって鶴は河南省孟県にある韓家に人間として生まれ変わり、湘と名付けられました。
 韓湘は幼い時に両親を失い、父親の叔父にあたる人(叔祖父)に育てられました。その叔祖父は唐の大文人として知られた詩人である韓愈(注1)だと云われています。韓湘子と韓湘とが同じ人物であるかどうかということは歴史的に論争されていますが、一般的には、韓湘子は韓愈の甥の息子であるといわれており、様々な歴史書にも韓愈は確かに韓湘という甥の子どもを育て、その子は役人として仕事をしていたと述べられています。

 唐代末の小説《酉陽雑俎》(注2)によると、韓愈の、この甥の息子・韓湘は大変な変わり者で、すべての束縛を嫌うばかりか、読書もせず、出世には無関心、美女にも全く興味を持たず、お酒を飲んでは、ひたすら道術の訓練に耽っていたということです。

 20歳ごろふらりと何処かへ遊びに行ったきり、行方不明になってしまっていましたが、それから20年後、突然ぼろぼろの身なりで長安の街に姿を現わしました。

 韓愈はこの甥の息子を深く心配して学校に行かせ、読書をするように勧めましたが全く耳を貸さず、賭け事をしたり、お酒を飲んだりしているばかりでした。

 遂に韓愈は怒って、

 「こんなでたらめの生活を続けていたらお前の将来はどうなると思うのだ」

 と言うと、

 「叔祖父はご存知ではないが私には私しかできないこともある」

 と答えました。韓愈が

 「では、お前は何ができる?」

 と訊きますと、

 「私は牡丹の苗を植え、叔祖父のお好きな色の牡丹の花を七日間で全部咲かせることができる」

 と答えました。

 季節は真冬で、韓愈はとても信じられませんでしたが、韓湘が植えた牡丹の木は七日を経ると、なんと、本当に色とりどりに鮮やかな牡丹を咲かせたではありませんか。更に不思議なことに、花びらに「雲横秦嶺家何在 雪擁藍関馬不前」という対句が書かれてありました。韓愈がその意味を尋ねると、韓湘子は「後日分かるでしょう」と答えたそうです。

 その後歳月は流れて行きました。当時、朝廷の役人だった韓愈は、或る時皇帝に諫言を呈して皇帝の機嫌を損ね、長安から遥か遠い広東へ流されることになりました。が、その途中大雪になって前に全く進めなくなってしまいました。

 するとそこへ突然、韓湘子が見送りに現れて言いました。

 「以前自分が咲かせたボタンの花びらに書かれていた言葉の通りになってしまった」。

 その言葉を聞いた韓愈は、その地の名前を訊ねてみますと果たして藍関という地名でしたので、韓愈はその対句を織り込んだ詩を作り韓湘子に贈りました。その詩が今も有名な《左遷至藍関示姪孫湘》という詩です。

   一封朝奏九重天  夕貶潮州路八千

   欲為聖明除弊事  肯将衰朽惜残年

   雲横秦嶺家何在  雪擁藍関馬不前

   知汝遠来応有意  好収吾骨瘴江辺

(訳:朝に上奏文を天子様に奉った。すると、夕べには長安から八千里も離れた潮州に流されることになった/天子様のために悪弊を除きたいと思えばこそで、衰えはてた身を今更惜しもうとは思わぬ/雲は秦嶺山脈にたなびき私の家はどこにあるのだろう。雪は藍田関を埋めつくして私の馬は進まない/おまえが遥々やって来たのは、何かの心づもりがあるのか。それなら大川の瘴気を受けることになる私をなんとかしてくれるがよい)。 

 韓湘子は韓愈に目的地まで一緒に行くと、別れる際に一粒の薬を韓愈に渡し「この薬を飲めば、瘴気を防ぐことが出来るでしょう」と言って姿を消してしまいました。

 韓湘子は仙人になると叔祖父を道教の道へ導きたいと色々勧めました。しかし韓愈は結局生涯官職に付いたまま浮沈を繰り返し、亡くなるまで朝廷に仕えました。 (続く)


注① 韓愈
792年進士に及第し、その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」ともよばれる)、京兆尹などの官を歴任した。
古文復興運動を主導すると共に、中国古来の儒教の地位の回復を提唱した。詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成した。

注② 酉陽雑俎
『酉陽雑俎』は、中国・唐代の荒唐無稽な怪異記事を集録した書物。撰者は段成式。
書名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記している。

      
注1.2ともウィディペキアより 


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